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いおり日記

大阪市淀川区 いおり鍼灸院 院長・金澤秀光が綴る東洋医学に関するよもやま話。  「心身一如」の古典医学に立脚し、個人の有り様と、人間を取り巻く環境との相関的視点から気ままに書いています。 過去のブログ記事はこちらへ→http://iori-hermitage.sblo.jp/

生き方という健康

東洋医学
金剛山より奈良方面を望んで




 一般的には、病気でなければ健康だというイメージがされているようですが、果たしてそうなのでしょうか。

 病院で検査を受け、何も異常が見つからなければそれはすなわち健康だと言えるのでしょうか。


 今日の検査で異常のないことが、明日の保証になるのでしょうか?

 癌検診で何も異常が見つからず、一か月後に癌が見つかったということは、しばしば耳にすることです。

 検査は、結果を探すことであって、原因を探すものではありません。

 この点は、よ~く勘違い?錯覚?されるところです。


 これだけ広く検診が行われているにもかかわらず、病人は減らない。むしろ増えている。


 そのことからも、検診が病の予防になるとは筆者は考えていません。

 いくら検査を受けても、病の予防にはホンの一滴の、しずくの足しにさえならないのです。



 

 それよりも、

 毎朝意欲的な感覚で目覚めることができているか。

 自分自身のなかで葛藤や緊張が無いか。

 家族との関係は平和であるか。

 食べることと排泄は、すっきり気持ちよくできているか。

 夜はぐっすりと眠れているか。

 このような当たり前のことを、日常生活の中でちゃんと感じ取ることの方が、よほど病など気にせず生きていけると考えているからです。

 意欲的に生きていれば、そうそう病にはならないものですよ。

 ちなみに筆者は、他者から簡単に異常とのレッテルを貼られたくないので、今まで市町村実施の健康診断など、ただの一度も受けたことがありません。

 

 そこには、なにか異常が見つかったらどうしようとか、病気になったらどうしよう・・・

 その上、再検査なんて告げられると・・・って煽られるように不安が大きくなるからです。

 人は病に気が向けば、気が向いた方向に進むものです。筆者の個人的感覚では、なんか、ばからしいって思うのです。

 そもそも検診で、健康など診断できるはずがないじゃないですか。


 よしんば自分で異常を感じて医療機関を受診し、「すでに手遅れです」、な~んて言われても、それは現代医学の限界を吐弄しているだけ。


 だからといって、自分の人生が手遅れであろうはずがないじゃありませんか。

 第一ですよ、自分自身の一生を、自分以外の物差しで測って判断され、それに従って右往左往しながら生きるなんて、どう考えてもおかしいと、筆者の価値観ではそう思うのです。


 だからといって、医療そのものを全否定しているのではありません。

 医療が信頼できないということではなく、医療とは主体的に関わることをお勧めしているのですから、勘違いなさらないでくださいね。
 


 ところで、世間でよく使われている、「健康」の正体っていったい何なのでしょうね。


 なんか正体不明で、なんとなくのイメージだけが亡霊のように一人歩きしているように思えるのですが・・・


 健康に対する筆者のイメージでは、「肉体も心も、充実感にあふれ、自らの生命が輝くような生き方」というのがイメージにぴったりなのですが。

 ところが実際、なかなか難しいですよね。



 人ひとりが生きていく過程では、家族や様々な人たち、様々な環境との関係性の中で、これまた様々な摩擦や軋轢を生じます。


 それらのことで、心や肉体がしぼんだり破裂しそうになるのですよね。



 最近、筆者が思うようになってきたのは、肉体的に病んでいてもいいではないか、ということです。


 肉体を傷め手当てをしつつも、そんなことが眼中に無いくらい自分が喜びを感じる物事に打ち込むことができるのなら、それはその人にとっての「健康」ではないのかと。

 それが美味しいものを食べることであれ、旨いお酒を嗜むことであれ、ストレスの代償やはけ口ではなく、真に生きる喜びをそこに見出しているのならば、それは立派に健康=自分の真実に生きていることだと思うのです。


 病だの健康だのって、意識しない生き方こそ、真の健康状態だと、筆者はそう考えています。


 まさに、忘我に生きるってことでしょうか。

 

 肉体には、必ず死が訪れます。そう、必滅です。


 この世に存在している肉体はやがて滅びますが、生命を営んでいる魂の体験は不滅です。


 体験の記憶は失いますが、感覚としては魂にしっかりと刻まれます。


 これこそが、魂にとって何にもまして至上最大の一大事。


 いきなり話の次元が飛んでしまいますが、筆者の臨死体験からは、そのように感じるのです。



 この世で少しでも多く体験を積むには、やはり肉体を大切に扱い、長寿を実現したいのは当然です。


 単に、長生きが良いのではなく、何を、どのような状態を体験したいのか。


 魂は、喜びと感動を志向します。

 魂からすれば、肉体は体験を実現する手段の一つにしか過ぎません。


 死ねば衣服を着替えるかのように、またこの世に喜びと感動を求めて戻ってくるのです。

 (輪廻の輪から外れると、魂が決めれば別ですが・・・)


 

 「病気をせずに長生きすること」が目的ではなく、それは結果なのです。

 生き方の反映なのです。


 現代の死生観は、本当に逆立ちしていますよね。


 このような観点に立って、古来より東洋医学的養生法が創り出されたのです。この世の生を楽しむことを主眼に。

 だれでもが自らこの世に、命(めい)を持って生まれてきます。


 この世の全員が、命(みこと)です。


 時に迷い、今は未来に灯りを見いだせなくとも、この世に在る限り、自らの生命が輝くような生き方をしようではありませんか。