いおり日記

大阪市淀川区 旧いおり鍼灸院 一の会鍼灸院と内実ともに改めました。 院長・金澤秀光が綴る東洋医学に関するよもやま話。  「心身一如」の古典医学に立脚し、個人の有り様と、人間を取り巻く環境との相関的視点から気ままに書いています。 過去のブログ記事はこちらへ→http://iori-hermitage.sblo.jp/

なんでか神道

 11月19日(月)、奈良県御所市にあります葛城御歳神社で「かんながらのみちの話」を聞きに行ってきました。

 先ずは境内に立ち入り、ご祭神にご挨拶。

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 天候は今ひとつでしたが、簡素な佇まいで清々しい気で満ちていました。

 

 なんで神道のお話しを聞きに行ったの? って思われる方もいらっしゃると思います。

 これはね、鍼灸医学が宗教と非常に関係が深いからなんですよ。

 えっ、そうなん! って思われる方も多いと思います。

 異を唱える先生方もたくさんいらっしゃると思います。

 ですが古典をみると、誰がどういっても道教や易学の世界観に基づいて人間を観ているんですよね。

 ですから、気をあつかう鍼灸家にとって、実は避けて通れないところでもあるんです。

 古典をひも解くと、あちこちにいっぱい「神」という言葉が出てきます。

 筆者は、唯物論の中医学そのままに漠然と「生命」くらいに思っとりました。

 それはその通りなのですが、間違いではないのですが、足りないのですよねぇ~、何かが。

 その「何か」を求めての行動です。

 仏教も中国に入ってきて多分に儒教や道教の思想が混じってます。

 とうぜんですよね、その土地に住む人々の感性に適わないと、布教そのものが出来ないのですから。

 ここにきて、神道の勉強ちゃんとしてこなかったなって気が付いた次第です。

 ちなみに、古事記や日本書紀くらいは知ってますよ、そういう書物からこぼれて来たくらいの話でしたらね。

 まだちょこっと足を踏み入れただけなのですが、道教よりやはり身近に神社のある神道への感覚がしっくりとくるなぁと。

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 写真は、奈良側から金剛山系を望んでのもの。

 立ち上る地気が、なんとも神々しい感じがします。

 こういう静かで動的な光景、筆者の好みです。

 なんとなく、竜神のイメージが湧いてきたのでした。

大人と子供の尾の引き方

 感情というのはある一面、心のエネルギーの波のようなものじゃないでしょうか。

 沸き起こった感情は、人を動かしますし、周囲の人の心にも影響しますよね。

  感情は、人を生き生きとさせる反面、人を深く傷つけます。

 喜びだと、影響されると幸せになりますが、怒りや悲しみのようにネガティブなエネルギーをぶつけられると、もろに影響されますよね。

 何か事が起きたり、人に何かされたり言われたりすると、必ず反応として感情が起きます。

 ポジティブな感情や感覚は、残念なことに比較的早く治まってしまいます。

 ところがネガティブな感情や感覚は、比較的長く尾を引いてしまいます。

 なんでだと思いませんでしょうか。

 この点に関しては、大人と子供を比較してみると分かるのではないでしょうか。

 子供は、泣いていたかと思えば、もう笑っています。

 大人は、そうはいかないですよね。

 なぜなら、大人には思い込みや観念、それに考えるということがあるからだと思うのです。

 子供は、自我が未発達だからですね。

 逆にいえば、自我が大きくなればなるほど、感情の振れ幅も大きくなるということです。

 「おれが、わたしが」と、思う気持ちが大きければ大きいほど、長く尾を引くのですよねぇ

 

パニック障害・過換気症候群の原因と対処法

 みなさま、しばらくぶりです。

 感情が原因している病を、東洋医学では「七情の病」というのですが、鬱積した感情が爆発的に解放しようとする姿が、過換気症候群を生じさせます。

 パニック障害も病理はちょっと複雑になりますが、感情の鬱積という点では同じです。

 筆者は、これまでパッと振り返って数えきれないくらいの症例に遭遇してます。

 現在も、通院中の方がいらっしゃいます。

 この病は、今に始まったことではなく、古来から存在しています。が、近年になってクローズアップされているだけです。

 対処法としては、過呼吸になった時に、とにかく「ぁぁ~」でも「ぅぅ~」でもいいから声を出すことです。

 「ぁぁ~」が「ああー!!」となると、怒りや悲しみがどっと出てきます。

 この声を出すことが呼び水となって、鬱積した感情が表現されると、手足の冷えやしびれ、麻痺などが一気に取れます。

 大きく感情が現れても大抵は、この感情に乗っ取られることはありません。

 大きな感情の波の中にいても、どこか冷静な自分がそれを見ていると、これまでの患者さんはみなさん、そうおっしゃいます。

 発作でなくとも、感情が鬱積してしんどいな、と感じられましたら、ベランダに布団を干して叩きながら吐く息に感情を乗せてみるのも効果的です。

 鬱積した感情は、そのままにして通り過ぎても体内に残ります(腹に持つ)ので、のちのちの病に繋がります。

 ところが、このようなことを繰り返し繰り返しやっても、すっきりとしない場合もあるのですよねぇ。

                               つづきます。

 

感情のしこりねぇ~。

 光陰矢の如し…

 あっという間に日時は過ぎて、なんともう11月ではありませんか。

 日常の臨床にまみれて、ブログもすっかりご無沙汰です。

 このところ、精神疾患を患った方の受診が相次ぎまして、何がこの人を病にまで追いやってしまったのかを、日々考えさせられていました。

 精神疾患と言っても、肉体が原因しているものもあるのですが、やはり何といってもこころの問題は大きいです。

 こころの問題といえば、先ずは感情にかかわるトラブルです。

 感情的にいつもすっきりとしている人って、そうそういらっしゃらないのではないでしょうか。

 このブログをご覧くださってるみなさま、いかがでしょうか。

 筆者も、今は落ち着いていますが、しょっちゅう嵐のような感情が湧きあがりますし、様々な思いとセットになって心のどこかにしまっているのもあります。

 こういうのって、いずれどこかで何かのきっかけで、噴出すること間違いないでしょうね。

 そうでもしないと、気のうっ滞となっていずれ何らかの形で身体に現れるか、自分でも説明のつかない行動となって現れてしまいますから

 感情と病については、過去ブログに少し書いてます。

 期待するから腹が立つ

kanazawa.ichinokai.info

 

 前回ブログでも触れているように、一旦湧きあがった感情を治める・落としどころですね。

 少し処方箋が描けるかもしれません。

 主題が散乱するかもしれませんが、ボチボチまた書いて参りますので、みなさまよろしくお願いいたします。

 

 

熊野速玉神社・熊野本宮大社 熊野

 しばらく投稿に間が開いてしまいました。

 20日、小雨が降る中、神倉神社を後にしまして、熊野速玉神社へと車を向けましてすぐの到着。

 今になって、一枚も写真が無いことに気が付きました。(^-^;

 ですが、筆者の脳裏にはくっきりとその美しい朱色の神殿は残っています。

 例えるなら「うるわしく厳かな、巫女の舞」とでも申しましょうか。

 熊野本宮大社が、「清楚に鎮まった、武士(もののふ)」のイメージと対照的です。

 筆者の中で、易と陰陽で熊野ツアーで参拝しましたお社がまとまりました。

 

 玉置神社 清楚で澄んだ陰陽未分化(自然神と人霊神)が混然と一体となった存在。

 

 熊野本宮大社(男性的)      熊野速玉神社(女性的) 

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 那智大社(動の自然神)      神倉神社(静の自然神)

 

 こんなイメージでつながりました。

 

 そして熊野速玉大社から、熊野川に沿って北上。

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 ちょうど雨が上がって、沸き立つ雲々と山の風景がなんとも幻想的です。

 そして再び熊野本宮大社に訪れ、ここで昼食。

 その後、明治22年の大洪水で被害を受けてから、現在の場所に移転になる前の大斎原を訪れてみました。

 

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 なんともデーンとした大鳥居。

 奈良の大神神社の鳥居もでっかいですが、ここは周囲に何もないので特殊な存在感を感じます。

 おまつりされている神々にご挨拶をすませ、すぐ近くの熊野川の河川敷に降りてみました。

 

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 なんとも言えない悠久の流れを感じました。

 ここでは、「おれがおれが」のちっぽけな小我の存在など、痕跡も残さず砕かれ、洗い流されて、せいぜい小さな砂の一粒程度にしかならないのだと。

 そう思うと自分にこだわる自分が、とても滑稽に思えてきました。

 今回の熊野詣の最後がこの地でであったことは、何か意味があったのかもしれませんね。

 今回の熊野の旅で、家族全員がこの地に魅了されてしまいました。

 次は、いつ訪れましょうか…(*^。^*)

 

神倉神社 熊野

 翌20日は、あいにく小雨ぱらつく天候となってしまい、伊勢への参拝は次回日を改めてということになり、このまま熊野でゆっくりと過ごすことに。

 コンビニで傘を買い求めて、いざ神倉神社へ。

 何とも趣のある橋を渡り、左手に曲がるとすぐに鳥居が見えます。

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 その鳥居の向こうには、いきなり急な石段が現れます。

 すでにお参りを済まされた方が、杖を片手にゆっくりと足元に気を配りながら降りてこられ、朝の挨拶を交わしながら行き交う。

 もうすでに気持ちいい感じです。

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 ご神体である磐座についた時には、汗が噴き出ていました。

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 この神倉神社の磐座は、もう言葉にできないくらいの圧倒的な静かな存在感。

 まさに鎮座という言葉がぴったりです。

 那智の滝は、動の自然神。

 神倉の磐座は、不動の自然神。

 いわば、陰陽関係の自然神のように感じています。

 これまで、何度も大きな地震があったはずです。

 それでも微動だにせず?有史以来ずっとこのままこの地にドッカと存在しているのってすごいことですよね。

 ご神前からは、熊野灘が眼前に広がります。

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 不老長寿の仙薬を手に入れると、秦の始皇帝を騙した?徐福は、実は亡命したとの説もあるようです。

 その徐福、この熊野の地にも流れ着いたとの伝説があるようです。

 このような徐福伝説は、全国各地にあるようですねぇ。

 

 なんにしろ、この地の気に触れるだけでもう十分。

 そして昇ってきた参道を、ゆっくりゆっくりと足を降ろしながら、ゆっくりゆっくりと味わいつつこの地を後にしました。(ほんまにゆっくりとしか、降りれません)

 そしてこれから、熊野速玉神社と、もう一度熊野本宮大社に立ち寄ることに。

                            つづく

那智大社 熊野

 そして19日(日)午後4時過ぎ、本日最後に参拝したのが那智大社です。

  十数年前、初めてこの地を訪れて、遠くから那智の滝を目にしたときに、白い竜が身をくねらせて昇っているように見えて、わが目を疑った記憶があります。

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 写真の風景、いかにも日本的情緒を感じさせると思いませんか。

 前回訪れた時は、滝つぼの近くまで行きました。

 その時に感じたのは、圧倒的なパワーでした。

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 写真は、筆者と愛娘の後ろ姿です。

 かつての時を懐かしいと思いつつ、今の幸せを実感した時でもあります。

 今回は、滝と少し距離が開いていますが、パワーを感じるには十分です。

 

 滝つぼの近くにまで行った時、水面から数十メートルのところまで、まるで球形のパワーの塊のようなものを感じて、自分の胸の鼓動が高鳴ったことを覚えています。

 動画で伝わるかどうか、ちょっと味見してください。

 今回は、時間が無かったこともあり、ご挨拶だけに済ませましたが、また改めてゆっきりと訪れたいところです。

 もちろん、神恩感謝のお礼は忘れていませんよ。

 

 そして時間が随分ずれてしまい、宿に連絡。

 宿は南紀勝浦の海に面した温泉宿で、海岸に面した露天風呂でまったり。

 

 熊野灘の潮の香、届きますでしょうか。

 愛娘は、卵の臭いのお風呂と、普段なら到底ありつけない夕食と朝食バイキングでご機嫌の極地。

 (普段、我が家は質素でございます。 笑)

 まあ、人霊となってこの世に降臨して、日も浅い9歳なので無理もないっか。

 

 旅程、少しほおばりすぎたかなと思いつつ、地酒と当地料理にまったりとしつつ、あっという間に眠りにつきました。

 翌日は新宮の神倉神社からのスタートです。

 

                  つづく