いおり日記

大阪市淀川区 いおり鍼灸院 院長・金澤秀光が綴る東洋医学に関するよもやま話。  「心身一如」の古典医学に立脚し、個人の有り様と、人間を取り巻く環境との相関的視点から気ままに書いています。 過去のブログ記事はこちらへ→http://iori-hermitage.sblo.jp/

治めたいんだけど治まらない(2)

 前回ブログ

治めたいんだけど治まらない・・・(1)

 

 そこには、誰しもが持っている「存在に対する不安」があるからだと思うのです。

 人に認めてもらいたい、受け入れてもらいたい、人に評価してもらいたい・・・

 誰だって持ってる欲求ですよね。

 自分を、周囲の人に受け入れてもらう・認めてもらう事で、自分の存在を確認しようとしませんでしょうか。

 

 ところがです、人はそれぞれ同じものを見ても、心に映るものは異なるのですよね。

 ということは、人の評価は、あまりあてにならないということにならないでしょうか。

 

 恋愛なんて、まさにそうだと思うのですよ。

 自分は相手を素敵だと感じ、受け入れてもらいたいと思っても、すんなり受け入れてくれるとは限らないじゃないですか。

 拒否されると、そりゃ感情の嵐も吹き荒れようものです。

 思考もMaxになります。

 この感情の嵐は、時間と共に次第に治まって行くものです。

 そのことに執着して、思考を深めなければの話ですが・・・

 

 若き頃の筆者にも、覚えがあります。

 失恋すると、この世の終わりのように思うのですよね。

 ですが、この世は終わりません。

 相手に対する、こころの執着を手放すと、こころの嵐も治まり、次が始まるのですよねぇ。

 我ながら、たくましいなぁと思います。

 

 このように自分のこころが常に周囲に翻弄されるこころの在り様って、自分の存在を外に求めるからなんですよね。

 筆者にとっての友人って、互いに認め受け入れる関係で成り立っていると思います。

 でも、これって錯覚かもしれませんが、悟っていないものにとっては自然なことだと思うんですよね。

 でも、悟っていなくっても、自分の中の執着にハッと気が付いて手放せると、楽になるのですよねぇ、これが。

 植木等じゃないですが、「わかっちゃいるけど、やめられない・・・」

 これには、少し時間がかかっても良いと思います。

 ちなみに、植木等のお父様は禅僧で、息子の「スーダラ節」を聞いて、「あいつは悟っている」とつぶやいたとかなんとか・・・

 「スーダラ節」YouTube

 「スーダラ節」歌詞

 

 こころって、周囲に・環境に翻弄されるものなのでしょうか。

 少なくとも筆者は、そう考えておいた方がいいんじゃないかなと思ってます。

 なぜなら、自分のこころでありながら、制御不能になることがあまりに多いからです。

 しかしどれだけこころが揺れて、乱れて荒れ狂っても、元に戻るには大切なことがあります。

 それが自己肯定感だと思うのです。

 自己肯定感は、こころのアンカー。

 

 この方、幼少のころから親に褒められたことが無く、むしろ否定的なことが多かったと話されました。

 本当のところは、分かりません。

 ご本人が、そう思い込んでいただけかもしれません。

 でもはっきりしていることは、無意識に外に承認を求めていたと、ご自分で気が付かれたことです。

 まっ、どちらにしても、これからはどんな自分であっても、自分で自分を肯定して行くことが課題ですねと言う事で、会話は終了。

 そして最後に、人に対して哀れみではなく、「慈しみのこころ」が持てるようになりますと、言い残して帰られました。

 なんとご聡明な、ご自身で完結されました・・・めまいがしそうでした。

 ん~、筆者も、自己肯定感を養わなくては・・・

治めたいんだけど治まらない・・・(1)

 先日、久々に身体の不調を訴えて来院された患者さんとの会話から。

 この数か月、自分の中で憤りを感じて職場の人間関係の中で、閉じこもっていると。

 

 その方がおっしゃるには、あることがきっかけで怒りの感情が湧きあがり、以来次々と怒りが怒りを呼び起こし、職場での人間関係を維持するために、ひたすら抑えているとのこと。

 怒りの感情が惹起してからは、思考が次から次に働いて、頭も心もいっぱいいっぱいになってしまい、人と接する機会も極力避けるようになっているとも。

 社会参加はしているけれど、いわゆる閉じこもり状態に近いと、現状の辛さを切実に話してくれました。

 

 うんうん、あるある・・・筆者にも覚えがあります。

 

 ところで、何がつらくって、なにがしんどいのでしょうね。

 

 結論は、自己肯定感を培うことに落ち着きました。

 

 そもそも感情というのは、こころの波のようなものではないでしょうか。

 風が吹けば、こころが波立つのは自然ですよね。

 そのままにしておけば、また治まる時もあろうものです。

 ところがいつまで経っても、波が鎮まるどころか反って大きくなる・・・

 なんででしょうか。

 

 考えるからです。

 考える内容は、自己の正当性と相手の不当性。

 自分の正当性と相手の不当性を考えれば考えるほど、怒りの波はどんどん大きくなるのですよねぇ。

 もう、嵐になってしまう・・・

 そして、どんどん苦しくなっていくのですよねぇ。

 

 自己の正当性を考えることは、ある意味防衛な訳です。

 こころの自己防衛です。

 

 では、なんで守ることが必要なのでしょうね。

 

 続く・・・

 

 

 

 

 

洗脳?

 知らない間に自分の心にしみついている、社会通念や価値観。

 この社会通念や価値観で、こころは反応し、思考し、行動してしまっています。

 その中のひとつ、最近筆者自身が感じていること、「向上心」

 これって、ひょっとして、洗脳?

 向上心が人を社会を、進歩・発展させる・・・本当だろうか、と疑問に思ってしまったのですよね。

 なんか、向上したいとか、進歩しなければと、いつの間にか自分自身から湧き上がってくる思いかのように感じていたのですがね。

 自己啓発の本とかも読んではみたのですが、結局「向上」なんですよね。

 生活のあらゆるところで便利になり、清潔になり、医療もどんどん進歩して,

しかもみんなが健康に生きるどころか半病人だらけのこの現状。

 なのに、こころはこの現状に「これでいい」って思うどころか、もっともっとって、どこか求めてるし、どこか芯からホッとする感覚に乏しいのですよね。

 世間では、勝ち組と負け組とか、何を基準に勝ち負けと言ってるのかよく分かりませんが、何となく戦争してるんだろうなぁ。

 社会通念というルールに従っての、競争、争い、奪い合い・・・

 子供のお受験もその内のひとつですよね。

 こんな感覚で企業も働く人も、今を生きているのだろうか。

 そりゃ、疲れて病気にでもなりましょう。

 表向きはきれいでも、なんか裏にギスギスしたものや他人に無関心か、さもなくば競争心のようなものを感じることが度々あります。

 対人関係でも、街を歩いていても。

 通勤の雑踏の中で、肩がぶつかっても振り向きもしない人が多いと感じてます。

 そらしんどいわな、といってもそれ以外の価値観や自分自身の在り様を見つけるのは、なかなか難しいのでのしょう。

 なにせ、いつの間にか気が付けば、ずっとこんな感覚で生きてきたのですから。

 さて、気がついてみてはみたものの、洗脳から脱するには・・・

 そして今のご時世で自分が自分として平穏なこころで生きていくには、一体どうすれば良いのでしょうねぇ。

八百万の神と自分

 世界中で最も多様な宗教が存在しているのは、実は日本だと言われています。

 そんな中でも、神道は古くから信仰されてきています。

 神道の考えに、八百万の神というものがありますが、あらゆるところに神が存在していると言う事ですよね。

 鍼灸医学は、ひとりひとりに「神」が宿っているのが前提で成り立っています。

 あなたも筆者も、神様なのですねぇ。

 八百万の神というだけあって、中には人に災いする神様も、なんとお社まで作ってお祭りしてしまう感性を持ち合わせているのですねぇ、この国では。

 外国でも、破壊の神、シバ神なんて言われているのですから、無くてはならない何らかの必要なお働きがあるのでしょう。

 そんな「神様」をも宿している自分自身なのですが、時に自分自身を見失ってしまう時があります。

 いったい自分が何を考えているのか、何をしたいのかが分からない。

 自分の身体に、こころに何が起きているのか分からない。

 時に、誰にでもあることだと思います。

 そんな時、筆者は自分自身に対して、「失神状態」だなと感じます。

 でも自分の中に神は居る。

 目を閉じて、呼吸に意識を向け、じっと自分の心の動き、身体の感覚に合わせます。

 もう、これだけで「得神」だと思うのですよ。

 自分が分からなくなっても、お腹は動いているし呼吸もできているし。

 それだけでいいのじゃないかと、筆者は思うのですが・・・

気憶?

 みなさま、大変ご無沙汰しております。

 各種セミナーで、板書する機会が多いのですが、よく指摘されるのが誤字。

 最近指摘されたのが、この気憶。

 正しくは、記憶なのですがこの「気憶」

 我ながら、東洋的な造語? だと思うのですがいかがでしょうか。

 

 確かに、「記す」とある訳ですから、覚え方としては正確な文章化のイメージですよね。

 ところが、「気」を憶えるとなると、その時の感覚を憶えるといった感じになりませんでしょうか。

 

 音楽、香り、空気・・・何となく感覚で過ぎ去った過去の出来事がリアルによみがえってくることってありませんでしょうか。

 これこそが、気憶だと思うのですが、いかがでしょう。

 我田引水の、うんちくでした。

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霊性というもの

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  霊性について思う時、その薄れを感じることが多々あります。

 悲しいかな、筆者も自分に対してそのように感じるのです。

 例えば、更地に家を建てる時に、敷地にしめ縄を張って祝詞をあげてもらうのが一般的です。

 よく見かけますよね、起工式とかにしめ縄張って神主さんが祝詞を挙げる光景。

 人と精霊の関わりを大事にする古来からの霊性の現れです。

 土地の精霊(産土=うぶすな)に対して、ここに家を建てることで成長できなくなる草花や虫に対してお伺いをたてるのですね。

 このような感性だと、環境破壊など起きる事はありえないのですが。

 精霊と人間とは共存ってことです。

 ところが現代に至っては、まずは家を建てることを人間が決めてから、形式的にお伺いを立てているのが現状です。

 ここをどいて下さい、って言ってることと同じになってしまってます。

 そこに精霊たちからのメッセージに耳を傾ける感性は、欠落してしまっています。

 人間による環境悪化が、人間の首を絞めることは、誰もが周知のことです。

 人間にとって大切な環境を取り戻すには、精霊を敬い、共存するという霊的感性を取り戻すことこそが、もっとも急務だと思うのですよ。

 それはとりもなおさず、自分自身の霊力=元気を高めることにもつながることだと思うのですが。

 このように書きつつ、筆者自身が生きて行くうえで霊性の回復は、大きな課題となってしまっています。

 

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霊力は元気

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 いきなり「霊力」って書きましたが、強弱の差こそあれ誰でもが持ち合わせている力です。

 筆者の感覚では、霊力=元気なんです。

 一般的な常識として、肉体を維持するパワーの源は、空気(天の気)と飲食物(地の気)に培われていると思われています。

 確かに、東洋医学の教科書にも、空気(天の気)と飲食物(地の気)で気血が生成され精力につながる生理が説かれているのですがね。

 ところが、はたしてそれだけが我々人間の、いや全ての生物の元気の源なのだろうか。

 この疑問が出発点です。

 空気と飲食物が無いと、肉体を維持できないのですから大事なことには間違いはありません。

 でもやはりそれだけでは無い!って思うのです。

 その、なんか欠けてると思われるのが、霊力ではないかと。

 では、「霊力」とは、いったいなんぞやってことになるのですが、これを表現するとなると、なかなか難しく感じてしまうのです。

 稲垣副院長が、個人ブログ「とある鍼灸師の実情」のなかで、自然治癒力が方向性を違えると、発病力に転化してしまうことを説いてます。

 発病力が向かう方向を、本来の在り様に転換すると、創造と喜びに向かうのですが、そこに霊力というか霊性的感性がとても重要になってくると思うのです。

                               つづく

 

※写真は昨日、日の出直前の南天に、ぽっか~んと浮かんでたお月さま。
 ぽっか~ん、気持ちいいだろうなぁ~。

 

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