いおり日記

大阪市淀川区 いおり鍼灸院 院長・金澤秀光が綴る東洋医学に関するよもやま話。  「心身一如」の古典医学に立脚し、個人の有り様と、人間を取り巻く環境との相関的視点から気ままに書いています。 過去のブログ記事はこちらへ→http://iori-hermitage.sblo.jp/

症状と浄化

アザミの、ふんわりとしたわた毛





 辛い症状が、意外と浄化であることも。

 東洋医学では、「元気」が弱ると邪気がはびこるようになり、ついには自力で回復し難い病的状態になってしまうと考えます。

 元気が弱る=気枯れてくると、今まで元気の本であったものが邪気に変じます。

 たとえば、水分は生体にとってなくてはならないものですが、これが気枯れて巡らなくなると、即「水邪」となって生体にとって有害な病理産物になってしまいます。

 感情も同様で、何かに対して瞬間的にムカッとしたとします。

 一瞬の出来事です。

そのことをきちんと認識しないまま、「何に対して、自分が何を伝えたいのか」を感じていながら、そのまま通り過ぎると、意識しないうちに気の流れを阻んで「気滞」という邪気を生じます。

 恐ろしいと感じませんでしょうか。瞬間であっても、体はしっかりと反応しますから。

 この瞬間瞬間、その時その時の小さな気滞が積もり、それに気づかないまま時間が経過するとどうなるでしょう。澱んだ川にヘドロが生じるように、やがて物質化します。そこに様々な邪気を副次的に生じるようになるのです。

 このようにして体内に溜め込まれた邪気が、元気の回復する過程で一気に体外に排出される場合があります。これは時に激しい症状を伴います。

 東洋医学では、『瞑眩(めんげん)』と称し、「好転反応」や「浄化作用」とも言います。

 前回ブログ「けがれの浄化」の中で述べた<霊動=自発運動>も、その一つの現れです。

 ただし、邪気の勢いが急激で、元気が負けている時にも激しい症状が現れるので、その鑑別はしっかりとしなくてはなりません。

 専門家であれば、治療の経過から予め『瞑眩』が起きるであろうことは十分に予測可能です。

 一般の方でも、起きた症状に対してちょっとした認識さえ持てば、自分の身に起きた事の意味を知ることが出来ます。

 いくつか例をあげてみます。


  • 悪いものを食べた記憶もないのに、急にお腹が痛くなって下痢をし、しかも嘔吐までした。症状が治まった後、妙にすっきりした。
  • なんかモヤモヤした気分で、些細なことでイライラしがち。自分でも「おかしいな・・・」と感じてはいても、それが何なのか判然としない。が、ある日ドラマを見ていて、突然自分でもびっくりするくらい涙が出てきた。ひとしきり泣いたら不思議とすっきりした。
  • なんとなく体がだるく重く感じて、気持ちまで落ち込むような毎日。思い切って野外に出て運動し、軽く汗をかくと体も気持ちも軽くなってきた。
  • 生理前になると精神的に不安定で、身体的にも痛みやだるさ、眠気などがある。けれども生理出血が始まり、終わるころにはすっきりと解消する。


 まだまだたくさんあるのですが、思いつくままに書いてみました。

 これらは、日常の中で知らず知らずの間に起こしていた気枯れが浄化された時に起こる状態です。

 上記の4つに共通しているものにお気づきでしょうか。

 それは、出るべきものが出た後にすっきりとしている点です。

 仮に、風邪を引いて高熱が出たとしても、その後は反って調子がよくなるようだと、これも一種の浄化と言えます。
 風邪などの感染症は、落ち着いて自分を信頼して対処していると、ある意味大きな浄化になる側面もあるのです。いわば身体のお掃除をするチャンスです。

 自然界において、台風は大きな災害をもたらしますが、大きく全体を見渡せば浄化であることが分かります。台風一過の晴れ晴れとした空のように。

 いたずらに感染を恐れず、自分の持てる自然治癒力を信頼して、日々伸び伸びと自分の生命を表現して生きましょう。

 鍼専門 いおり 鍼灸院

けがれの浄化

遠景と近景 織り成す神々の山 金剛山より


 「一の会」で行っています呼吸瞑想を、日課として行いながら通院くださってる方から。

 『物事を隠そうとか、取り繕おうとするよりも、素直に正直に表現して相手の意見や思いを聞こうとしてみたら、自分が恐れていた相手から意外と好意的な気が返ってきた。』

 ・・・とまあ、うれしい気づきを伝えてくださった人がいらっしゃいましてね。

勇気をもって、これまでとは違う行動をされたのです。これって、ホントすごいことですよね。

 人は、犯した過ちは赦しても、隠そうとする気に対しては、決して赦さないものだと筆者は思ってます。

 さらにこの方、先日お墓参りに行ったとき、無性に近くの神社に行きたくなって、ご神体のイワクラまで一心に駆け上って降りてきたところ、それこそ全身の震えが止まらなくなって・・・と。

 これは『一の会』で試みたけど出なかった「自発運動なのでは・・・」と思い、しばらくそのままにして自分を感じていると自然に治まったそうです。

 それ以来、不思議と全身の関節痛と朝の手の関節のこわばりが出なくなったとのこと。

 これ、宗教的には「霊動」と言うんでしょうね。

 「霊動」などといえばたいそうな感じがしますが、ちょっとしたコツさえ覚えれば、意外と簡単に起きることなのです。


 現代社会に生きていると、知らず知らずの間に気が鬱積するんですよね。それはあたかも、輪ゴムをねじったまま止めているようなものです。

 この’巻き戻し’が一気に起きると、あたかも神が乗り移ったかのように勝手に言葉が出たり、体が動いたりすることが実際にあるのです。これ、精神病との鑑別が必要なのですが。


 この小さなよじれが積もり積もると、大きなよじれとなり、いわゆる『穢れ=気枯れ』を起こして病となってしまいます。

 さしずめ世間的な言葉を用いれば、ストレスということになります。

 が、このストレスという言葉、なんとも安易に浅薄にしか用いられていないですね。

 なんでもかんでも、訳の分からないものは「ストレスじゃない?」って、ストレスラベルをつけたらもう解決したかのような気分。

 東洋医学では「気滞」と称しますが、「気滞」と認識すれば、同様にもう解決したかのような気になってる人のなんと多いことか。

 「気滞」を起こす真の原因を見つけ出して解決するのって、治療者、患者双方にとって至難の業ですよ。互いに魂のヒダに分け入るくらいの意識が必要です。

 「気」を扱うものからすると、見過ごせない点です。


 岸和田のだんじりや灘のけんか祭りなどはこのような観点から見ると、伝統的な祭りが上手く機能しているんだろうなって思います。

 「気滞」の原因解決なんてどうでも良い。日ごろの鬱積を、祭りという行事で一気に解放するんですよね。

 ある程度、固定的な社会であれば、それでよかったのだと思います。

 ところが価値観や様式変化が速い現代においては、軸になるものをしっかりと自分の中に感じていないと、振り回されて「気滞」満載の状態になってしまいがちです。

 だからこそ瞑想のような方法を用いて、日常的に自分と向き合うことが非常に重要な意味を持って来るのです。


 ところで、神社には必ず鏡がありますよね。この鏡、参拝者自身を映すためなのでしょうね。

 どこの家庭にもある鏡に自分を映すように、心の鏡にありのままの自分をじっくり映し出して向き合うことも大切なこと。

 穢れ=気枯れ

 この意味は、深いなと感じます。またまだ語りつくせないものがあるように感じます。

 皆様は、いかが感じられるでしょうか。


 鍼専門 いおり鍼灸院


 

 

けがれると、病気になる・・・

寒風にもかかわらず、咲こうとしているのですねぇ


 久々のブログ更新です。

 たまたまジョギングしている時に、「穢れ」って一体どういうことなんだろうと、ふと、思いまして。

 何かの本で「気枯れ(けがれ=きがれ」と書いてあったことが浮かんできて、どういうことを言っていたのかよく思い出せないのですが、とにかく元気が無くなることだったと思います。

 元気が無くなる=気枯れ・・・

 今さらながら、上手く表現しているなと感じたのですが、続いて「気枯れ=木枯れ」とも通じるな、と思い、どうなれば木が枯れるのだろうと、走るのを止め、しばし歩きながら考えてしまいました。

 ① まずは日が当たらないこと。 これは葉枯れから起こりますよね。

 ② 水分と肥料のやりすぎ。 この場合は、根腐れから起こりますね。不足しても枯れますが。


 人間だと、①は、昼間適度な運動などを行って活動しないこと。これは手足の気枯れになるのでしょうか。加えて、日が当たる=存在を認めてもらうことにも通じると感じました。

 ②は、文句なしに飲みすぎ食べ過ぎによる栄養過多ですよね。臓腑は、木だと根に相当するので、内臓の病は根腐れを起こしていることになります。

 とすると、周囲に存在を認めてもらえず、運動不足に栄養過多になると、穢れ=気枯れてくることになりますね。

 人間は、木と違って心で身体を動かしますから。

 意気消沈して元気が無くなったり、むやみやたらと感情をたれ流したり、反対に言いたいことをはっきり表現せず、感情を溜め込むと元気が無くなるので、やはり穢れ=気枯れることになってしまいますね。

 日本の文化は、穢れの思想というか、そういった感覚を持ち合わせているので、穢れることに関しては無意識に避けているのではと思うのですがいかがお思いでしょうか。

 と、いうのは、科学中心の世の中であっても、神社を訪れる人は後を絶ちませんし、年末年始や人生の節目に神社に参拝するのも、どこかこの自分自身の穢れを意識しているからなのではないかと、最近思うのです。

 となれば、やはり穢れを嫌い高潔を好むのが日本人なのではないかと。

 食事もまた、粗食であって粗食と感じないそんな感性があったように思えるのですが・・・

 今はグルメとか言って、無文化の多国籍料理が食卓に上っています。

 子供たちでさえ、外で遊ぶよりも室内でゲーム遊び。寒風の中、独楽回しや凧揚げなんて、めっきり見なくなりました。

 このようなことで、元気で過ごせるのでしょうか。

 穢れ=気枯れ・・・

 これだけではないかもしれませんね。

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四季の過ごし方・・・秋は刑の季節?

つつましく・・・


 11月ともなると、朝夕めっきりと寒く感じるようになってきますね。

春から芽を出した草木は、ようやく結実の時期を迎え、やれやれといった感じの声が聞こえてくるようです。

東洋医学の原典『黄帝内経(こうていだいけい)』の中に、<秋刑を緩める>という言葉が出てきます。

そこで「刑」という言葉の意味から、この時期の心の在り様などを探ってみます。
「刑」は井と刀(りっとう=)を組み合わせた文字だそうです。

井は、首かせをかたどった文字で、行動の自由を奪うために首や手足にはめる道具で、その後時代を経て、鼻・耳・首を切り落とす刀を加えて「刑」という文字が出来上がったとのこと。
※ 参考 常用字解 白川 静

何やら恐ろしげな文字だったのですね。

 翻ってこの時期をよく感じてみると、夏の活発な陽気は鎮まり、次第に寒気が深まり、何かと動き辛い季節が到来する予感がしませんか?

『黄帝内経』では、以下のように記述されています。

「秋からは、夜が長くなり昼は短くなってくるので、それに合わせて早寝・早起きするのがよい。朝は鶏が日の出を告げるころに起き始めるのがよい。」

 「心は、あれこれ思わすに気を鎮めて緩め、安定させるのがよろしく、そうやって万物を堅く収縮させ、枯れ死させ、刑罰を思わせるような秋の気とバランスを取るようにするべきである。」

 と、まあこのように説いています。

気持ち的には、あれもこれもしなくっては・・・と、心を忙しく散乱させるのではなく、秋の引き締まる気に傷害されないよう、気ぜわしく動き回らないようにしなさいということなのでしょう。

 が、簡単なようでなかなかむつかしく感じるのが現代です。

第一、労働形態が当時とは格段に異なっていますからね。(言い訳にしないようにしなくては・・・)

とはいっても、現代病がはびこるのは、自然界の法則を無視した生活にあると、東洋医学ではそのように考えますので、やはりここは謙虚に耳を傾けていきたいものです。

冬になると風邪を引きやすい、何かと体調が悪い方は、この秋の過ごし方がとても重要になって参ります。


先ずは、ご自身の今の心の状態を振り返ってみることから始めませんか。

そして、少しでも自然に寄り添うような生活になるように工夫したいものです。





言葉を通じて伝わるもの

まだまだ草花を楽しめますね


 東洋医学では、感情の過不足による病を『七情の病』として具体的な身体状況から捉えます。

 「七情の病」は現代病のほとんどに関係しているのです。

 例えば、世の中には怒りをエネルギー源にして生きている人がけっこう多いですが、一口に「怒り」と言ってもそれぞれの人が持つ、心の鏡によって様々な映り方をします。

 このことは、誰しもが経験的に知っていることです。
同じ状況であっても、イライラする人・しない人、怒る人と笑いが起こる人などがいる訳です。

 ある患者さんの場合は、怒りの対象となり困憊してしまっているケースでした。

 恋愛関係で、会いたいと思っているのになかなか会えない。そしていつも一人で過ごす時間が多くなると、寂しさがつのります。

 まして、大切な相手の状況の忙しさ、大変さやしんどさを察知できると、相手に負担をかけてはいけないと思いやりの気持ちで寂しさをこらえます。

 そしてこらえにこらえて、寂しさが積もり積もると、一転して怒りに変わるのです。

 すると寂しさが、相手に対する思いやりが、今度は心ならずも怒りという矢になって、大切であったはずの相手に飛んでしまうことになります。



 このプロセスを、自覚できる人はまだいいのです。自分で出口を探すことができるのですから。

 問題なのは、抑圧の期間が長く、その抑圧の力が大きく積もり積もり、それが心のフタとなって本人の自覚できる意識からそのプロセスと自覚が消えてしまった場合です。

 すると何となく疲れやすい、やる気が出ない、なんとなくといった不調が身体のあちこちに現れます。

 ちょっとしたきっかけで、なぜか会社や学校に行けなくなったりするのです。

 もう、心の中がいっぱいいっぱいの状態だからです。


 このような場合、きっかけをいくら詮索しても、解決にはつながりません。

 ましてや、無理に行かそうとすると確実に悪化します。

 本人は、見た目に反して内面的には、あせります。

 意思としては行きたいのに、なぜかいけない・・・

 さらに深刻になると、顔から表情が消え、心の動きを止めるために外界との接触を嫌うようになります。


 うつ病も同じなのですが、自分の中に深く押し込めてきた感情に触れることができるようになると、自分自身のやさしさに気づくとともに、周囲に愛情を感じるようになります。

 わけもなく泣けるようになると、氷が融ける様に好転してきます。

 この期間とプロセスは、人により様々です。


 悲しみや寂しさを怒りで抑えつけたり、また溜め込んで一気に怒りが噴出したり・・・

 周囲の人は戸惑いますが、本人が見失ってしまったものを、周囲が認識して待つことができると、必ず良くなるものです。

 心は空の雲のようなもので、形はあるように見えても決まった形はありません。

 十人十色の事情とプロセスがあるように、このケースは一例でしかありません。


 良くしてあげようと、あせらないことです。また、無理に言葉で、押さえつけないことです。

 投げかける言葉とは裏腹に、不安な気持ちで見守ると、不安な感覚が相手に伝わります。

 どれだけ本人を信頼して、見守ってあげられるか・・・これが、最も辛い本人には安心感として伝わります。

 人は、放たれた言葉そのものよりも、その言葉に込められた心や気持ちを感じるものです。

 言葉は多少足りなくとも、気持ちは伝わる感性をみんなが持ち合わせています。

 本人の持っている力を、どれだけ信じて見守ってあげるか・・・やはりこの点がポイントだと筆者は重ねて思います。


 鍼専門 いおり 鍼灸院

生き方という健康

金剛山より奈良方面を望んで




 一般的には、病気でなければ健康だというイメージがされているようですが、果たしてそうなのでしょうか。

 病院で検査を受け、何も異常が見つからなければそれはすなわち健康だと言えるのでしょうか。


 今日の検査で異常のないことが、明日の保証になるのでしょうか?

 癌検診で何も異常が見つからず、一か月後に癌が見つかったということは、しばしば耳にすることです。

 検査は、結果を探すことであって、原因を探すものではありません。

 この点は、よ~く勘違い?錯覚?されるところです。


 これだけ広く検診が行われているにもかかわらず、病人は減らない。むしろ増えている。


 そのことからも、検診が病の予防になるとは筆者は考えていません。

 いくら検査を受けても、病の予防にはホンの一滴の、しずくの足しにさえならないのです。



 

 それよりも、

 毎朝意欲的な感覚で目覚めることができているか。

 自分自身のなかで葛藤や緊張が無いか。

 家族との関係は平和であるか。

 食べることと排泄は、すっきり気持ちよくできているか。

 夜はぐっすりと眠れているか。

 このような当たり前のことを、日常生活の中でちゃんと感じ取ることの方が、よほど病など気にせず生きていけると考えているからです。

 意欲的に生きていれば、そうそう病にはならないものですよ。

 ちなみに筆者は、他者から簡単に異常とのレッテルを貼られたくないので、今まで市町村実施の健康診断など、ただの一度も受けたことがありません。

 

 そこには、なにか異常が見つかったらどうしようとか、病気になったらどうしよう・・・

 その上、再検査なんて告げられると・・・って煽られるように不安が大きくなるからです。

 人は病に気が向けば、気が向いた方向に進むものです。筆者の個人的感覚では、なんか、ばからしいって思うのです。

 そもそも検診で、健康など診断できるはずがないじゃないですか。


 よしんば自分で異常を感じて医療機関を受診し、「すでに手遅れです」、な~んて言われても、それは現代医学の限界を吐弄しているだけ。


 だからといって、自分の人生が手遅れであろうはずがないじゃありませんか。

 第一ですよ、自分自身の一生を、自分以外の物差しで測って判断され、それに従って右往左往しながら生きるなんて、どう考えてもおかしいと、筆者の価値観ではそう思うのです。


 だからといって、医療そのものを全否定しているのではありません。

 医療が信頼できないということではなく、医療とは主体的に関わることをお勧めしているのですから、勘違いなさらないでくださいね。
 


 ところで、世間でよく使われている、「健康」の正体っていったい何なのでしょうね。


 なんか正体不明で、なんとなくのイメージだけが亡霊のように一人歩きしているように思えるのですが・・・


 健康に対する筆者のイメージでは、「肉体も心も、充実感にあふれ、自らの生命が輝くような生き方」というのがイメージにぴったりなのですが。

 ところが実際、なかなか難しいですよね。



 人ひとりが生きていく過程では、家族や様々な人たち、様々な環境との関係性の中で、これまた様々な摩擦や軋轢を生じます。


 それらのことで、心や肉体がしぼんだり破裂しそうになるのですよね。



 最近、筆者が思うようになってきたのは、肉体的に病んでいてもいいではないか、ということです。


 肉体を傷め手当てをしつつも、そんなことが眼中に無いくらい自分が喜びを感じる物事に打ち込むことができるのなら、それはその人にとっての「健康」ではないのかと。

 それが美味しいものを食べることであれ、旨いお酒を嗜むことであれ、ストレスの代償やはけ口ではなく、真に生きる喜びをそこに見出しているのならば、それは立派に健康=自分の真実に生きていることだと思うのです。


 病だの健康だのって、意識しない生き方こそ、真の健康状態だと、筆者はそう考えています。


 まさに、忘我に生きるってことでしょうか。

 

 肉体には、必ず死が訪れます。そう、必滅です。


 この世に存在している肉体はやがて滅びますが、生命を営んでいる魂の体験は不滅です。


 体験の記憶は失いますが、感覚としては魂にしっかりと刻まれます。


 これこそが、魂にとって何にもまして至上最大の一大事。


 いきなり話の次元が飛んでしまいますが、筆者の臨死体験からは、そのように感じるのです。



 この世で少しでも多く体験を積むには、やはり肉体を大切に扱い、長寿を実現したいのは当然です。


 単に、長生きが良いのではなく、何を、どのような状態を体験したいのか。


 魂は、喜びと感動を志向します。

 魂からすれば、肉体は体験を実現する手段の一つにしか過ぎません。


 死ねば衣服を着替えるかのように、またこの世に喜びと感動を求めて戻ってくるのです。

 (輪廻の輪から外れると、魂が決めれば別ですが・・・)


 

 「病気をせずに長生きすること」が目的ではなく、それは結果なのです。

 生き方の反映なのです。


 現代の死生観は、本当に逆立ちしていますよね。


 このような観点に立って、古来より東洋医学的養生法が創り出されたのです。この世の生を楽しむことを主眼に。

 だれでもが自らこの世に、命(めい)を持って生まれてきます。


 この世の全員が、命(みこと)です。


 時に迷い、今は未来に灯りを見いだせなくとも、この世に在る限り、自らの生命が輝くような生き方をしようではありませんか。



自然の力(2)・・・発揮するために




 前回の続きです。

個人において「天」は、胸から上の部分に相当し、呼吸と意識が「神」でした。

 この自然界を上から、天位・人位・地位と分けて気の変化を捉えたのが『三才思想』と言われるものです。

 それらの「気」の変化と徴候を人体に応用したものが、鍼灸医学です。


 飲食・大小便などの、物質的なものは雨と同じく上から下に自然に降りてきます。

 また感情の気や熱気などの非物質的なものは、下から上に昇って宇宙に解放されます。

 自分自身の身体に自然に訪れる感覚を自覚できないまま、自然に反する生活を送っていると、徐々に不自然な状態=病的状態へと移行するのです。

これら上下の気の交流ルートの一部に停滞が起きると、一部の異常は全体の異常をきたし、一見関係無いように思える他の部位に様々な症状が現れてきます。

例えば、天位から人位・地位へと下るべき気が降りないと、咳や喘息、めまい、だるく疲れやすい、お腹や腰の痛み、足腰の弱り等といった症状が現れます。

また同じく天位から入ってくる飲食物が降りないと悪心、嘔吐、便秘、などの症状が現れます。

人位で気が停滞すると、腐敗を起こしますので癌、糖尿病、膠原病などをはじめ、様々な消化器の疾患を引き起こします。

地位の気が停滞すると足腰が弱ったり腰痛、泌尿器疾患、婦人科疾患、などが現れ、昇るべき気が昇らないと立ちくらみ・めまい・頭がはっきりとしない、健忘、浮腫などが現れます。

 さらに人位・地位で腐敗した汚れた気が天位に上ると、アトピーや目鼻のアレルギー疾患、蓄膿、耳鼻咽喉の疾患、頭痛、痰を伴った呼吸疾患など、数多くの病が生じるようになります。

 飲食の内容、心の状態や周囲の環境の状況などが、様々な形で全身に表現されるのです。
 
 臨床での実際は、このように単純ではないのですが、イメージとしてつかんでいただけたらと思います。


鍼灸医学では、現代のあらゆる疾患は「三才思想」を根本原理として認識し、治療します。

病変部位に囚われず、天・地・人全体の邪気を祓い、気の流れを自然に戻すことで治癒に導くのです。

川の上流にゴミが詰まることにより、症状が下流に現れたとしても、その原因は上流のゴミの詰まりにあるというわけです。

東洋医学の治療とは、痛む部位や現われている症状に原因があるとみなしません。もっと全体を見渡して真の原因を見つけるのです。

人体の気の流れを、その人本来の自然に戻すことに着眼して治療を施しますので、問題を生じている局所に鍼をすることなど本来あり得ません。

鍼灸治療と並行して自然に適った養生を行っていただくと、元々自分自身に備わっている自然治癒力が最大限に発揮されます。

自分に備わっている治癒力が高まると、主訴はもちろん付随する他の諸症状の消失、そればかりか生き生きと生命が輝くようになるのです。

 恋する人がまるで若返ったかのように見える、これこそが本当のアンチエイジングではないでしょうか。



みなさま、自然に適った生活を通じて、自らに備わっている命の力を充実させましょう。


 鍼専門 いおり 鍼灸院