いおり日記

大阪市淀川区 いおり鍼灸院 院長・金澤秀光が綴る東洋医学に関するよもやま話。  「心身一如」の古典医学に立脚し、個人の有り様と、人間を取り巻く環境との相関的視点から気ままに書いています。 過去のブログ記事はこちらへ→http://iori-hermitage.sblo.jp/

世界平和も・・・

 時になにかやってしまって、あやまることってありませんでしょうか。

 筆者は、しょっちゅうありますが・・・

 でもね、失敗や誤りって、誰にでもあることだと思うのですよ。

 ところが、いつも相手が許してくれるとは限りません。

 そんな時、ちょっと自分を振り返ってみるのもいいかも知れません。

 言葉であやまっていても、自分を守るためになっていないかどうか。

 そしてなにか、隠そうとしていないかどうか。

 人は、誤りよりも隠そうとするそのこころこそ、絶対に許しはしないと思うのです。

 まずは、正直になることですね。

 言い訳は、火に油を注ぎますね。

 ポイントは、100%謝り切ることだと思います。

 また、いつも自分を守るためにあやまっていると、知らず知らずに失敗を恐れるようになり、いつも緊張している状態となります。

 意に反して、失敗も多くなります。

 さらにそんな状態が続くと、疲労感だけでなく人と接するのが、いつのまにか億劫になってしまいますね。

 では、どうすれば良いのでしょうか。

 過ちを犯してしまったのなら、迷惑をかけた相手に、身をゆだねるしかないでしょう。

 正直な気持ちで、相手が何を望んでいるのか、どうして欲しいのかを伝えてもらうこと。

 時に、勇気がいる場合もあるでしょう。

 それでも、ダメな場合もあります。

 が、ちゃんとあやまれたと自分で思えたら、あとは相手に任せるしかないですよね。
 ただ、ある患者さんから告白されたのですが、職場でいじめにあう場合もあるそうなので、事が深刻なことになる場合もあるようですね。

 話を聞いていると、まるで戦争のようです。

 戦争に負けると、何を失うのでしょうね。

 勝つと、何を得るのでしょう。

 世界平和も身近なところからと、願うばかりです。

 

何者にかに、なる?

 梅のつぼみも次第に膨らんできていますね。

 梅の開花が、待ち遠しく感じる今日この頃です。

 

 さて、またしても社会人成り立ての若い患者さんとの会話ネタです。

 一生懸命、社会で生きて行こうとされている。

 素晴らしいですよね、若い方のエネルギーって。

 これから、将来に向かって生きていこうとする時に、モデルが欲しいんですよね。

 どんな自分になりたいかという、モデル。

 それに伴う、人生計画や方法。

 いいですよね、なんの問題もありません。

 

 ところがです、モデルに成り切れなかったとしたら?

 計画を大きく変更せざるを得ない状況が生じたら?

 ここに苦悩される方がいらっしゃるのですよ。

 そもそも、モデルは基準となる単なる枠のようなものです。

 そこに無理して自分を当てはめよう・押し込めようとするから苦しいんですよね。

 モデルの枠に収まらない自分がいる。

 そして自分がコントロールできない状況変化がある。

 ちょっと横道にそれますが、人生においてコントロールできるのは、ホンのわずかな範囲しかないと、筆者は思っています。

 人生って、自分の思い通りにならない、コントロール不能が前提だと思うのです。

 自分をコントロールできる部分って、自分自身の事くらいじゃないでしょうか。

 例えば、勤勉とか努力とかですかね。

 あと、いらんことしないで、ジッとしているとか・・・

 ちなみに勤勉・努力のコツは、結果を期待しないことかな。

 筆者は、期待を大きくすると、期待外れと出た結果に腹立つことが多いです。

 しかも結果は、自分の勤勉さ以外の、いろんな関係性が複雑に絡み合って出ますので、必ずしも勤勉・努力=好結果にはつながりませんしね。

 これ、かつて学校では勤勉・努力=好結果と教えられたのですがね。

 だからと言って、テキトーにしてれば良いという話ではありませんので、念のため。

 

 コントロールに関しては、相手のことのみならず、自分の健康状態や心の喜怒哀楽など、個体としての自分自身さえそうそうコントロールできませんよね。

 誰だって病気したくないけど、どんだけ気を付けていても、時に病んでしまうことってあるじゃないですか。

 これ、筆者だけですかね。

 

 社会規範に大きく外れて人様に迷惑をかけないのでしたら、その時々の周囲の状況や自分の心境に随って、自由に生きてみるのも良いと思います。

 時に勇気、要りますがね。

 

 なんか、話がバラバラになってしまいました。

 ちょっと強引に落ちをつけます。

 何者かになろうとするよりも、自分はこれから何者になるんだろうって、水が流れるように生きる方が、力が抜けて楽に楽しく生きれるように思うのですが、みなさま、いかがでしょうか。

 気ままなお話にお付き合いいただいて、ありがとうございました!

期待するから腹が立つ

 東洋医学では、感情の過不足によって生じる病を「七情の病」と言います。

 病気の原因を指して、「七情の病」と言ったりもします。

 例を挙げますと、この喘息は・腰痛は、七情の病だな、といった感じです。

 「七情の病」そのものについては、ネットで検索して頂くと色々出てきますので、ここでは詳しい解説は省きますね。

 ちなみに、同志 永松周二先生のブログ。

 衆妙の門 七情と顔 でも取り上げておられますので、よろしかったらご覧ください。

 

 この「七情の病」、喘息やアトピーなどのアレルギー疾患をはじめ、様々な病名のついた、特に現代病の背景に必ずと言って良いほど存在しています。

 へぇ~、そんなことあるんかいな、と思われる方、多いと思いますが、「こころとからだ」、丸ごとひとつとして観る東洋医学ならではの診方です。

 

 さてさて、ずいぶんと前置きが長くなってしまいましたが、人が持ち合わせている感情の中で、今回は「怒り」を取り上げてみます。

 

 筆者も日常ありがちな「なんか、腹立つぅ~」ってやつです。

 つい先日、ある患者さんと話してまして、飼っているペットにイラついたり腹立つことあります? って聞くと、ほとんど無いとの返答。

 むしろ、家族の一員として以上に、甲斐甲斐しくお世話されてるとのこと。

 このような感覚でペットを飼われている方、多いのではないでしょうか。

 

 その反面、妻や夫、親子・兄弟には腹立つ、イライラする・・・

 これって、何ででしょうねぇ~。

 

 答えは、すでにブログタイトルに書いちゃってますね。

 ペットには、初めから自分の行ってることに、返ってくるものを期待していないからではないでしょうか。

 しかも、自分の思い通りにはならないと、はじめっから悟っている。

 ところが人に関しては、理解してもらいたい・受け入れてもらいたいなどの承認欲や、期待した通りに動いて欲しい・期待した見返りが欲しいなどの欲求がありませんでしょうか。

 自分が望んだとおりにならない・・・そらイラっとしたり腹、立ちますわな。

 無駄な怒りのエネルギーを垂れ流しにしたり、我慢してこころの中に鬱積させたりすると、思わぬ身体の異常となって現れるのですよ、これが。

 

 じゃあ、どうすればいいのでしょうか。

 人に見返りを期待せず、何かをやってあげれる自分自身がうれしい。

 これは、つくすとか慈愛に通じるのではないでしょうか。

 そして何事においても、自分の思い通りにはならないけれど、予定は未定と見通して、今目の前のことに一生懸命に取り組む、などなど・・・

 筆者も、こころのエネルギーを無駄に浪費せず、すっきりとした状態で生きたいと願っているのですが、なかなかこれが・・・

 一旦湧きあがった感情を治める・落としどころって、難しいです。

 無理に、言い聞かしてもダメですからね、からだは反応したままですから。

 こころが反応して、感情が湧きあがるのを未然に治めるには、慈愛に生きるしかないっか。

 なんか、無理っぽいなぁ、というか筆者の感覚では、修行になっちゃいますね。

 なんか、もっとしっくりとくるこころの体験が必要なのかもしれません。

 まっ、イラっとせずにボチボチ探って参ります。

 みなさまは、こころ穏やかに平和に生きるため、どのようにお考えでしょうか。

 

自己肯定感について

 前回までのブログ

 治めたいんだけど治まらない・・・(1)

 治めたいんだけど治まらない・・・(2)

 

 このところ、 ある患者さんとの会話を通じて感じたり思ったことを書いています。

 以来、自己肯定感について色々と考えてみました。

 

 

 この自己肯定感、ひとり瞑想などしながら、心の中でアファメーションを繰り返すことで培えるものなのでしょうかね。

 それも、ひとつの手だとは思いますが。

 筆者の、一面的な見方かもしれませんが、自己肯定感は個人と周囲の関係性の中で培われていくものではないかと思うのです。

 そういった意味では、周囲との関係性や場の状況ってとても大切に思えてくるのです。

 そもそも、自己肯定感とは、どんな自分も自分として葛藤なく受け入れる、いわば「あるがままの自分」を表現する受け入れ先があって、自然と育っていくものではないか、と思うのです。

 

 筆者の生まれ育った昭和の中頃、地方の田舎は、まだまだ閉鎖的な社会でしたが、その分、人との関係は濃密でした。

 冠婚葬祭は、近所の人が一緒になって家を貸し借りして行っていましたし。

 田舎だと、隠しようがないと言いますか、何かあるとすぐに周囲に知れ渡ってしまうようなネットワークが存在していました。

 村八分という特殊なこともあったようですが、大抵は良いことも悪いこともひっくるめて、それぞれの個性を発揮しながらお互い上手くやっていこう、みたいな村社会。

 酒席や祭りでいつもケンカはじめる人や、まじめにコツコツと働いているけどヘンコツな人や頑固な人、何かと世話好きな人・・・色々おりましたけど、当時の方は個性的でしかもよくぶつかっていたような記憶があります。

 でも関係性は、よほどのことがない限り壊れない。

 そんな関係性の中で、少々アホなことしてても、ちゃんと村の一員として認められているというのは、自己肯定感にも少なからず影響していたのではないかと思うのです。

 そういう観点からすると、自分が自分として「ありのまま」、「あるがまま」に表現できる場って、とても重要だと思うのです。

 近しいところでしたら、家庭でしょうか。

 筆者も、もっとやってみようかなと。

 妻に言わせると、多分、すでに「あるがまま」にしてるやん、って言われそうですが。

治めたいんだけど治まらない(2)

 前回ブログ

治めたいんだけど治まらない・・・(1)

 

 そこには、誰しもが持っている「存在に対する不安」があるからだと思うのです。

 人に認めてもらいたい、受け入れてもらいたい、人に評価してもらいたい・・・

 誰だって持ってる欲求ですよね。

 自分を、周囲の人に受け入れてもらう・認めてもらう事で、自分の存在を確認しようとしませんでしょうか。

 

 ところがです、人はそれぞれ同じものを見ても、心に映るものは異なるのですよね。

 ということは、人の評価は、あまりあてにならないということにならないでしょうか。

 

 恋愛なんて、まさにそうだと思うのですよ。

 自分は相手を素敵だと感じ、受け入れてもらいたいと思っても、すんなり受け入れてくれるとは限らないじゃないですか。

 拒否されると、そりゃ感情の嵐も吹き荒れようものです。

 思考もMaxになります。

 この感情の嵐は、時間と共に次第に治まって行くものです。

 そのことに執着して、思考を深めなければの話ですが・・・

 

 若き頃の筆者にも、覚えがあります。

 失恋すると、この世の終わりのように思うのですよね。

 ですが、この世は終わりません。

 相手に対する、こころの執着を手放すと、こころの嵐も治まり、次が始まるのですよねぇ。

 我ながら、たくましいなぁと思います。

 

 このように自分のこころが常に周囲に翻弄されるこころの在り様って、自分の存在を外に求めるからなんですよね。

 筆者にとっての友人って、互いに認め受け入れる関係で成り立っていると思います。

 でも、これって錯覚かもしれませんが、悟っていないものにとっては自然なことだと思うんですよね。

 でも、悟っていなくっても、自分の中の執着にハッと気が付いて手放せると、楽になるのですよねぇ、これが。

 植木等じゃないですが、「わかっちゃいるけど、やめられない・・・」

 これには、少し時間がかかっても良いと思います。

 ちなみに、植木等のお父様は禅僧で、息子の「スーダラ節」を聞いて、「あいつは悟っている」とつぶやいたとかなんとか・・・

 「スーダラ節」YouTube

 「スーダラ節」歌詞

 

 こころって、周囲に・環境に翻弄されるものなのでしょうか。

 少なくとも筆者は、そう考えておいた方がいいんじゃないかなと思ってます。

 なぜなら、自分のこころでありながら、制御不能になることがあまりに多いからです。

 しかしどれだけこころが揺れて、乱れて荒れ狂っても、元に戻るには大切なことがあります。

 それが自己肯定感だと思うのです。

 自己肯定感は、こころのアンカー。

 

 この方、幼少のころから親に褒められたことが無く、むしろ否定的なことが多かったと話されました。

 本当のところは、分かりません。

 ご本人が、そう思い込んでいただけかもしれません。

 でもはっきりしていることは、無意識に外に承認を求めていたと、ご自分で気が付かれたことです。

 まっ、どちらにしても、これからはどんな自分であっても、自分で自分を肯定して行くことが課題ですねと言う事で、会話は終了。

 そして最後に、人に対して哀れみではなく、「慈しみのこころ」が持てるようになりますと、言い残して帰られました。

 なんとご聡明な、ご自身で完結されました・・・めまいがしそうでした。

 ん~、筆者も、自己肯定感を養わなくては・・・

治めたいんだけど治まらない・・・(1)

 先日、久々に身体の不調を訴えて来院された患者さんとの会話から。

 この数か月、自分の中で憤りを感じて職場の人間関係の中で、閉じこもっていると。

 

 その方がおっしゃるには、あることがきっかけで怒りの感情が湧きあがり、以来次々と怒りが怒りを呼び起こし、職場での人間関係を維持するために、ひたすら抑えているとのこと。

 怒りの感情が惹起してからは、思考が次から次に働いて、頭も心もいっぱいいっぱいになってしまい、人と接する機会も極力避けるようになっているとも。

 社会参加はしているけれど、いわゆる閉じこもり状態に近いと、現状の辛さを切実に話してくれました。

 

 うんうん、あるある・・・筆者にも覚えがあります。

 

 ところで、何がつらくって、なにがしんどいのでしょうね。

 

 結論は、自己肯定感を培うことに落ち着きました。

 

 そもそも感情というのは、こころの波のようなものではないでしょうか。

 風が吹けば、こころが波立つのは自然ですよね。

 そのままにしておけば、また治まる時もあろうものです。

 ところがいつまで経っても、波が鎮まるどころか反って大きくなる・・・

 なんででしょうか。

 

 考えるからです。

 考える内容は、自己の正当性と相手の不当性。

 自分の正当性と相手の不当性を考えれば考えるほど、怒りの波はどんどん大きくなるのですよねぇ。

 もう、嵐になってしまう・・・

 そして、どんどん苦しくなっていくのですよねぇ。

 

 自己の正当性を考えることは、ある意味防衛な訳です。

 こころの自己防衛です。

 

 では、なんで守ることが必要なのでしょうね。

 

 続く・・・

 

 

 

 

 

洗脳?

 知らない間に自分の心にしみついている、社会通念や価値観。

 この社会通念や価値観で、こころは反応し、思考し、行動してしまっています。

 その中のひとつ、最近筆者自身が感じていること、「向上心」

 これって、ひょっとして、洗脳?

 向上心が人を社会を、進歩・発展させる・・・本当だろうか、と疑問に思ってしまったのですよね。

 なんか、向上したいとか、進歩しなければと、いつの間にか自分自身から湧き上がってくる思いかのように感じていたのですがね。

 自己啓発の本とかも読んではみたのですが、結局「向上」なんですよね。

 生活のあらゆるところで便利になり、清潔になり、医療もどんどん進歩して,

しかもみんなが健康に生きるどころか半病人だらけのこの現状。

 なのに、こころはこの現状に「これでいい」って思うどころか、もっともっとって、どこか求めてるし、どこか芯からホッとする感覚に乏しいのですよね。

 世間では、勝ち組と負け組とか、何を基準に勝ち負けと言ってるのかよく分かりませんが、何となく戦争してるんだろうなぁ。

 社会通念というルールに従っての、競争、争い、奪い合い・・・

 子供のお受験もその内のひとつですよね。

 こんな感覚で企業も働く人も、今を生きているのだろうか。

 そりゃ、疲れて病気にでもなりましょう。

 表向きはきれいでも、なんか裏にギスギスしたものや他人に無関心か、さもなくば競争心のようなものを感じることが度々あります。

 対人関係でも、街を歩いていても。

 通勤の雑踏の中で、肩がぶつかっても振り向きもしない人が多いと感じてます。

 そらしんどいわな、といってもそれ以外の価値観や自分自身の在り様を見つけるのは、なかなか難しいのでのしょう。

 なにせ、いつの間にか気が付けば、ずっとこんな感覚で生きてきたのですから。

 さて、気がついてみてはみたものの、洗脳から脱するには・・・

 そして今のご時世で自分が自分として平穏なこころで生きていくには、一体どうすれば良いのでしょうねぇ。